ラグビー経験は全く問いません。くるみクラブの素晴しい環境で、素晴しい仲間づくりをしませんか。

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くるみクラブ紹介

くるみクラブ創設者

「くるみ賛歌」桑原寛樹
  1. 授業の若者信州に集い、
    赤黒ジャージで雄叫びあげる。
    これぞくるみ、我らがくるみ。
  2. 神宮の森にライトを照らし、
    戦い終えてノーサイド。
    これぞラグビー、我らがラグビー。
  3. クラブの若者蔵王に集い、
    スクラム組んで築いたお城。
    これぞラグビー、我らがくるみ。
  1. くるみクラブは戦後スポーツが普及し始めてから、否められた日本流(旧軍隊流)が根強く浸透していた頃にスポーツ界を批判し、現れたのがくるみクラブです。大学の授業で全くラグビー経験のない学生が、信頼を第一に休講をしない。時間厳守の厳しい授業でしたが、ラグビーの素晴らしさに触れ、その受講生の有志によって雄叫びをあげたのがくるみです。
  2. プレーが巧い、チームが強いからといって、スポーツマンとか、ラガーマンとは云わない。生活態度を大切にし、ラグビーをやっていることの誇りを身に付けた。
    クラブを創設して2年目にしてエーコンクラブ(その時代のクラブの雄)を相手に国立競技場にてナイターの有料試合を実現した。その試合を終えての交歓会でのくるみクラブ選手のマナーの素晴らしかったことが、毎日新聞に大きく報道される程であった。試合の勝ち負けよりももっと大切なことは「ノーサイドの精神」である。
  3. クラブ創設6年目には社会人(大学を卒業して2、3年)が資金を集め、学生が労働奉仕し、自分達の手でグランドとクラブハウスを造り上げた。そのチームワークは見事であった。
    クラブではラグビーだけでなく、食事作りから雑用にいたるまで大切にしています。それを矛盾なく実践するために、上級生、先輩が率先して行動することをモットーとしています。面白いクラブだと思います。

くるみクラブ創設者

(毎日新聞・昭和四一年九月二九日 池口)

桑原氏は現役時代、ラグビーの虫といわれたほど真面目な明るいスポーツマン。また卒業後は母校のハンドボール部や本田技研の野球の監督もつとめた変り種である。そのため、正課体育のラグビーでも他のあらゆるスポーツの要素を取り入れて「楽しい、明るい」スポーツを教えた。こうしてつくられたクラブは年々同好者がふえた。強制されたものではなく、あくまでもなごやかに自信を鍛え、クラブ活動を楽しむシステムに大学内の支持も集まった。
練習は週一日。あとは個人で自主トレーニング。ことしの元日には、各自が帰省先の郷里でトレーニングの第一歩を踏み出したという。こうした努力が実って、このクラブにも栄えある日が訪れた。

九月二十日の夜、国立競技場でラグビークラブの大先輩、エーコンに挑戦した。輝くばかりの照明に浮かぶ緑の芝の上でA・B二組のゲームが行われた。エーコンは東西十数校の大学OBを集めたクラブの横綱。くるみは芽生えたばかりの幕内新人といった対戦であったが、くるみの善戦に場内はわいた。スタンドには両クラブの家族、友人およそ三千人が集まっていた。その数でもお隣の秩父宮ラグビー場で行われた日大対谷藤機械の公式戦を上まわる壮観さだった。しかも両クラブの努力によって、このゲームの国立競技場経費十万円、ミーティング代を払ってもなお黒字が出たという。結局第一戦は22対10、第二戦28対15と破れたが、攻防ともに忠実なプレーに拍手、歓声がわいた。

往年の名フルバック笠原恒彦氏(明大出)も「二年間でよくここまで教えたものだ」と感心したほど。正面で見ていた中大文学部長の山口忠幸教授、学生部長の村田喜代治教授らも大喜びだった。山口教授は昨年まで六年間ラグビー部長をしていた人だが、このクラブのめざましい活躍を見て、「これが本当の学生スポーツのあり方だとしみじみ感じた。ゲームを見ていて肩がこらないし、相手のいいプレーにも拍手し合う楽しいスポーツでなければいけません」と語っていた。

このクラブは二十人ずつ一チームを作り、四チームがお互いにゲームをしたりして、楽しんでいる。英国のラグビークラブでもこういう組織の中から、人格、技術、力、すべてがクラブの代表としてはずかしくない選手を選ぶのがしきたりとなっている。日本の学生スポーツのなかにこのようなクラブがぞくぞくできてその大学の代表的存在となり、大学同士のゲームがもっと楽しいものになったら...というのが、このゲームを見た人たちの切実な祈りでもあった。